自己紹介
こんにちは。
沖縄県那覇市で、霊視の仕事をしている怜凛と申します。
この仕事にたどり着くまでには、自分でも少し長いなと思う遠回りがありました。
今日はその道のりをお聴きいただけたら嬉しいです。
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生まれは、那覇市の首里です。
石畳の坂と赤瓦の家が今も残る、静かな城下町です。
両親はどちらも街の市場で働く、共働きの二人でした。
朝が早く、夜も遅い。
代わりに私を可愛がってくれたのが、母の姉の伯母でした。
伯母は近くの御嶽(うたき)に通っていた人で、季節の変わり目や集落の行事のたびに、何時間もかけて祈りに向かう人でした。
今思えば、いわゆる神人(かみんちゅ)と呼ばれるような、土地と人の間をそっと取り持つ人だったのだと思います。
私が生まれた日、初めて私を抱いた伯母は、両親にこんな話をしたそうです。
「この子には、人の心の温度を測る力が来る。
冷たさに触れても凍らないように『凛』を、
その冷たさを厭わずに聴けるように『怜』を。」
そう言って、私の名前にこの二文字を選んでくれました。
小さい頃は、何度聞いても意味のわからない話でした。
それでもこの二文字は、私が困った時にふと思い出す、遠くの灯りのようなものになっていました。
「視えるかもしれない」と最初に思ったのは、九つの夏です。
近所のおばあが亡くなり、両親と一緒に、お通夜へ行きました。
仏間の隅で、亡くなったおばあの孫にあたる小さな男の子が、みんなに見えないように涙を拭いていました。
五歳くらいだったと思います。
その子の頭の上に、細い銀色の糸のようなものが、天井のあたりから、まっすぐ降りているのが視えました。
自分でも何を言っているのかわからないまま、私はその子のところに歩いていって、
「おばあ、まだそこに一緒におるって。だから、そんなに泣かんでいいよ」
と、小さな声で伝えました。
男の子はぽかんとした顔で私を見上げ、それからその晩、ずいぶん久しぶりに眠ったそうです。
数日後、その子のお母さんが小さな菓子折を持って、うちの両親に頭を下げに来ました。
「あの子、この一週間ずっと寝られなかったのに、
怜凛ちゃんの一言で眠れました」
私自身は、何をしたのか、まだ本当のところわかっていませんでした。
その日から、少しずつ、いろいろなものが視えるようになりました。
視えたのは、色でした。
人の肩のあたりに、薄い霧のような色が、ふわっとまとわりついているのです。
- 疲れきっている人は、深い青。
- 声には出さずに怒っている人は、橙。
- 言い出せない悲しみを抱えている人は、灰色。
- 誰かをそっと想い始めた人は、淡い桃色。
最初は自分の思い込みかと疑いました。
でも、色を視て「疲れていそうだな」と感じた友達は、翌日にはかならず、「昨日実は…」と話し始めるのです。
何度もくり返されるうちに、私はこの色を「読む」ようにしてまわりを見る、そういう小学生になっていきました。
中学、高校と進むにつれて、この感覚は、いっそう強くなっていきました。
国際通り、朝のゆいレール、学校の体育館。人の集まる場所を歩くだけで、色の霧が視界に混ざり合って、頭の芯がじいんと痺れました。
放課後は、たいてい遠回りをして、静かな伯母の家に寄り、縁側で線香の匂いを吸ってから帰るのが、私の毎日でした。
高校二年の冬、母の色が変わりました。
夕食のあと、台所で食器を洗いながら、母がひとりごとのように、
「もう、疲れちゃったね」
と、水音に混ぜてつぶやきました。
その日、母の肩から、鉛みたいに重たい灰色が立ち上っているのを、私はずっと視ていました。
いつもの家事の疲れの色ではなくて、もっと長い時間、飲み込まれ続けてきたたぐいの色でした。
私は、洗い物を代わりながら、思わず、こう言葉にしていました。
「お母さん、それ今言わなかったら、
もう戻れなくなるやつよ」
母はしばらく、水を止めたまま、黙って立っていました。
それから、私の前では初めて見せる顔で、静かに泣きました。
その夜、母は父と長い時間話しました。
なにかが劇的に解決したわけではありません。
でも、そこから母は、少しずつ自分の時間を取り戻していきました。
家族の色が、週を追うごとに変わっていくのをそばで見ていた時、私は初めて、
「この感じ方は、
隠しておくためのものではないのかもしれない」
とうっすら思いました。
十八の春、私は大阪に出ました。
進学ではなく、小さな陶芸工房で、修行のような形で働くためです。
誰かとたくさん喋る必要のない、手を動かして、黙って作れる仕事。
当時の私には、それが安全な逃げ場に思えたのです。
「普通に、誰かの朝食の器を焼いて、誰かの棚に並ぶ道具を作る。それだけの人でいたい」
そう思っていました。自分の視える力は、できれば沖縄の家に置いてきたかったのです。
けれど、大阪はやはり大阪でした。
梅田の朝、心斎橋の夜。
どちらへ行っても、人と色の霧で通り全部が埋まっていました。
工房に着くまでに、一日分の体力を全部使ってしまう毎日でした。
半年ほどしたある夜から、首の後ろのあたりに、砂を注がれるような重い頭痛が起きるようになりました。
眠れない夜が続いて、ろくろに向かえない日が増えて、土の匂いが、だんだん怖いものに感じられるようになっていきました。
ある雨の日のことです。
工房の帰り道、天満橋の路地の奥にある小さな沖縄そばの店に、たまたま吸い込まれるように入りました。
一口すすった時、湯気の匂いが、ぶわっと胸のいちばん奥までしみ込んできました。
それはなぜか、伯母の家の縁側の匂いや、仏壇の線香の匂いや、夕方の路地の匂いと、ぜんぶ繋がっていました。
その一杯を食べ終わる頃には、自分の中で決まっていました。
数週間後、私は工房を辞めて、沖縄に帰りました。
那覇に降り立ったのは、曇り空の午後でした。
首里の石畳の坂を、スーツケースを引きずってゆっくり歩いていくと、伯母の家の門の前で、ふっと、あの人の声が耳の内側で鳴った気がしました。
「その力はな、隠すためのものと違うよ。
誰かに、そっと渡すためのものやからね」
伯母は、私が大阪に出た年の秋に、静かに亡くなっていました。
それでも、路地に立ったその午後だけは、昔に伯母が縁側で言った言葉が、そのままの温度で聴こえてきたのです。
自分の力を「使う」という言い方は、ずっと苦手でした。
使うのではなく、必要としている人に、そっと渡すものなのだと、その日、ようやく腑に落ちました。
初めて誰かの相談を受けたのは、それから半年ほどしてからです。
近所のおばさんに、
「うちの息子と、少しだけ話してもらえないかね」
と、頭を下げて頼まれました。
その方の息子さんはまだ二十代半ばで、半年前にお父さんを病気で亡くしていました。
それからずっと、言葉が減っていったのだそうです。
狭い台所で、その青年と向かい合って座りました。
沖縄の夏の、少しむっとした午後でした。
彼の肩のまわりには、二つの色が混ざりあっていました。
ひとつは深い青。これは、彼自身の悲しみでした。もうひとつは、薄い橙色。これは、青年自身のものというより、彼の肩の少し後ろから、まだ届かないままの後悔として滲み出ているように視えました。
私は、静かに聞きました。
「お父さんとの間で、
まだ渡せていない言葉、あるでしょう」
青年は、しばらく何も言わずに座っていました。
それから、お父さんが亡くなる少し前に、くだらないことで大喧嘩をしたまま、仲直りができていなかったのだと、ぽつり、ぽつりと話し始めました。
私は、視えたことをそのままお伝えしました。
橙色の後悔は、おそらく息子さんのものというより、お父さんの側から届いているように視えます、と。
彼はしばらく、黙って、静かに泣きました。
一週間ほど経ってから、その方がまた家に来られました。
特に用事があるわけでもなく、
「久しぶりに、朝までちゃんと眠れたので、
それだけ、伝えに来ました」
と、少し笑って帰っていきました。
その背中を見送りながら、自分がこの仕事を続けていくのだと、なんとなく、静かに納得しました。
それから少しずつ、鑑定の仕事を始めました。
最初はご近所の口コミだけでしたが、今はオンラインでも、沖縄の外にお住まいの方から、ご相談をいただくようになりました。
- お仕事の岐路に立たれている方。
- ご家族との関係で、長く胸のつかえを抱えている方。
- 自分の進む道が、急にわからなくなってしまった方。
私に声をかけてくださる皆さんは、たいていの場合、相談される前から、ご自身の中に「答えらしきもの」をもう抱えていらっしゃるように感じます。
私にできるのは、その方がまだ気づけていない色や、まだ言葉になっていない声を、できるだけ丁寧に取り出して、そのままお渡しすることだけです。
視えたことは、正直にお伝えします。
ただし、「こうするべき」とは絶対に申しません。
その先を選ぶのは、いつだってご相談者ご自身です。
九つの夏の、仏間の隅で銀色の糸を眺めていた小さな私は、今も心のどこかに、そのまま住んでいます。
冷たさに触れても凍らずに、その冷たさを厭わずに聴く。
伯母が私に置いていってくれたこの名前のとおりに、今日も首里の一室で、画面の向こうの、お一人おひとりの色に、そっと目を向けています。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もしこの文章のどこかで、胸のあたりが、ほんの少しでも動いたなら。
今、ひとりで、自分の中の色をうまく測りかねているのなら。
一緒に、あなたの中の、いちばん静かな声を、探しにいけたらと思います。
怜凛